横溝 陽一 MIT Sloan Schoolに興味のある方へ

私にとって、MIT Sloan Schoolへの留学は社会人としての大きなステップ・ボードとなりました。昨年まで日本MIT会の会長を4年間、その前はMITスローン同窓会(SSJ)会長を3年間務め、振り返ってみると、まさにMITを通じての皆さんとのご縁が人生を豊かにしてくれました。このご縁を有難い(It’s miracle.)ものと心より感謝して、Sloanに留学している皆さん、これからSloanを志願しようとしている皆さんの参考になることを願い、私のSloanへの留学とその後の経歴についてご紹介します。

日本MIT会の会長であった時に、同窓会活動は皆さんとのネットワークそれ自身が価値だと思い、実社会で活躍するOBの皆さんにシリーズで講演をお願いしました。その企画の最後に、2009年10月に日本オラクルさんにイベント・スポンサーをお願いし、青山にある同社本社ビルで、私が「MIT Sloan留学からの四半世紀と情報産業への期待 ~ローソンCIOとしてのイノベーションへの取り組み~」と題して講演しました。

下の図がその時の資料の表紙ですが、前年のMITからのクリスマスカードにあったMITから見たチャールス・リバー越しのボストンの冬の美しい写真を載せています。

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私のMIT Sloan留学は、1984年に勤務先の三菱商事のビジネス・スクールへの派遣生となり、自分の想いを実現したものでした。

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経歴は上記の通りですが、理科系の出身で、大学時代から米国留学を希望していた私にとって、三菱商事入社後4年目にビジネス・スクールへの社日留学の社内選考に合格した結果、MIT Sloanを志望したのは自然の流れだったと覚えています。三菱商事社内にSloanを卒業した素晴らしい先輩が多数いたこともMIT志望した動機の一つでした。

1984年から1986年の留学当時は、ハーバード大学でProgram on U.S.-Japan Relationsの所長だったエズラ・ボーゲル教授が”Japan as No.1”を出版した直後で、自動車産業、電子・半導体産業など多くの産業で日本企業が躍進、台頭していた時代でした。MITはノーベル経済学賞を受賞したポール・サミュエルソンをはじめとする素晴らしい教授群が揃っており、今でも1学年目後期にあったMacro & International Economicsの授業で、レスター・サローとポール・クルーグマンが講師であったことが思い出されます。レスター・サローのマクロ経済学の授業は、彼の講義の内容が聴き入るばかりだったことが思い出されます。

しかし、何といっても私にとってMIT留学が大きな意味を成したことは、1984年の留学から今日までの、この四半世紀がまさに情報産業革命時代だったということです。当時、三菱商事では情報システム部門はEDP(Electronic Data Processing)と呼ばれていましたが、SloanでのMIS(Management Information System)の授業でEDPとは60年代の死語と指摘されたことや、最初の宿題がIBM PCとLotus 123のスプレッド・シートを使ったデータ分析だったことが思い出されます。

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今では、Excelを使うことが当たり前ですが、当時日本では企業でもPCは使われておらず、またスプレッド・シートのソフトも見たこともなく、宿題をこなすなためにMS/DOSコマンドを使い、ハードディスクではなく、5インチのディスクで、OSやLotus 123のアプリケーションソフトやデータのディスクを交互に差し替えて、Lotus 123のコマンドキーと悪戦苦闘して取り組んだことが思い出されます。

また思い出される話としては9月にSloanにAppleのJohn Sculley社長が来られ、特別講演し、ペプシコでのマイケル・ジャクソンを起用した若い世代をターゲットにしたマーケティング戦略や、Appleで1984年に発売を開始したMacintoshで、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」をテーマにし、その年のスーパー・ボールの広告枠を買い切り流したセンセーショナルな広告宣伝の話を聞きました。その結果、私は学校で使っていたIBM PCではなく、Appleの512KBのMacをMITの学生割引でも百万円近く払って購入したことが思い出されます。

MIT留学中は、多くの友人と密度の濃い付き合いをしました。バークレー音楽院に留学し、ボストンに居たジャズ・ピアニストの小曽根真氏と知り合いになったことも思い出されます。 当時はスポーツでは野球のBoston Redsoxではなく、バスケットボールのBoston CelticsがLarry Birdを擁し全米1になった時代であり、テレビ観戦だけでなくボストン・ガーデンにCelticsの観戦に行きました。また、小澤 征爾がボストン・シンフォニーの常任指揮者であったのでコンサートに行き、夏にはマサチューセッツ州郊外のタングルウッドで彼のコンサートを家族と一緒に野外で聴いたことも思い出されます。

Sloan卒業後は、本来日本に帰国するはずだったのですが、米国三菱商事が投資をしたシリコンバレーのベンチャー・キャピタルでAssociateとして2年間務めるという幸運に恵まれました。シリコンバレーではスタンフォード大学とMITがジョイントで同窓会活動の企画があり、スタンフォード大学のビジネス・スクールで、IBM互換コンピュータで一世を風靡したアムダール社のジーン・アムダール社長の講演を聞いたり、IBMのAlmadenリサーチセンターに見学に行ったことも思い出されます。 1988年には三菱商事本社に戻り、1987年に新設された情報産業グループで数々のプロジェクトをそれまでの経験を活かして取り組みました。シリコンバレーの立役者であるレジス・マッケンナ氏やCanaanベンチャー・キャピタルとの提携、数々の米国ベンチャー企業への出資提携などに、MIT Sloanでの経験が活きました。 1990年代半ばには、三菱商事のコンピュータ事業の一つとして、ロッキード社の子会社のFORMTEK社と提携し、CALS対応の統合情報システムの市場立ち上げをしたことが思い出されます。

以下の図は、マーケティングの活動として、ダイヤモンドハーバード・ビジネスで当時流行ったCALSの特集で書いたものです。

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その後2000年には新機能グループに移り、さらに2001年からは全社の経営企画部で当時の佐々木社長や小島副社長(その後社長で現在会長)の下で、IT戦略を担当しました。2002年にはその当時e-Marketplaceやサプライチェーン・マネジメントで米国最大手のソリューション・ベンダーであったi2テクノロジーズ社の日本支社の社長となり、2007年までの5年間の間に、東芝、パナソニック、NEC、JFEスチールなどの大企業でSCMプロセスを通じた業務改革に係ることが出来ました。 下の図の写真はJFEスチールのシステム主監であった菊川氏にラスベガスのWynnホテルで開かれたカンファレンスでJFEスチールでのシステム統合での活用について基調講演して頂いた時のものです。

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2007年からは、三菱商事が2000年にダイエーに代わって筆頭株主となったローソンの常務執行役員CIOとして、1,000億円級の次世代IT投資やそれを使った業務改革などに取り組みました。

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2008年の5月にマイクロソフトの会長として最後に来日したビル・ゲイツと一緒に「ITと経営の架け橋」と題したカンファレンスで講演したことも思い出されます。

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ビル・ゲイツとの講演ということで、彼の「思考スピードの経営」を読み直してみてみたところ、冒頭の章で、Sloan Schoolに名を残すGMの名経営者であるAlfred P. Sloan Jr.の「GMと共に」が引用されていたことを発見し、以下の様に引用しました。

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昨年2010年4月からは、私の友人である慶應義塾大学理工学部の小池康博教授の研究支援統括者となり、内閣府の最先端研究開発線プログラムに採択されたプログラムで、大学で生まれた基礎研究の成果を社会に還元するために取り組んでいます。

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昨年の日経ビジネスにも彼と私の話しも紹介されました。

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こうやってMIT Sloan留学から今日までを振り返ってみると、MITとの関わりが自分の人生そのものを大きく変えたことが判ります。 今年2011年には、日本MIT会は創立100周年を迎えます。MITからSusan Hockfield学長をお招きして、11月11日には記念式典を行います。そこでは、1986年に慶應義塾大学教授からMIT訪問教授として来られ、現在は千葉商科大学学長である島田晴雄先生にお願いして、「日本の岐路 3.11と日本の再生」と題した記念講演を行って頂く予定です。是非皆さんも日本MIT会、SSJのネットワークに入って下さり、皆さん自身の力で大いにMITのネットワークの価値を高めて下さるよう、心からお願いします。

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